Appleの従業員第1号Bill Fernandezとは − Apple IIの配線図を描いた男
皆さんは、故人であるスティーブ・ジョブズ氏と、天才エンジニアのスティーブ・ウォズニアック氏が立ち上げたAppleにおいて、初めての従業員となった人物をご存知でしょうか。
その人物の名はビル・フェルナンデス。先の2人ほど世に名が出る機会はないものの、もし彼がいなければApple初のヒット作Apple IIはなかったとも言える重要な人物です。
今回はビル・フェルナンデス氏が語るApple II誕生秘話を紹介します。
AppleをAppleたらしめた商品、それがApple II
ビル・フェルナンデス氏は、スティーブ・ウォズニアック氏が設計から開発まですべてを担当したとされるApple IIについて、以下のような発言をしています。
1977年、ジョブズとウォズニアックがApple IIを世に出したが、この商品こそ、AppleをAppleたらしめた商品だ。Apple IIは前世代のiPhoneであり、すべてのマシンを定義し直すような商品だったとも言える。
Apple IIにはウォズニアックのミニマリズムが詰まっている。彼はそれまで誰も考えつかなかったようなやり方で、数多くの技術や部品を1つのデバイスに収めた。それも、最小限の部品をね。ウォズニアックは後に自伝で述べているが、Apple IIは「初のローコスト・コンピュータで、詳しいものでなくとも買ったその日にすぐ使えるのが魅力のデバイス」だったんだ。
ウォズニアック氏の伝説的なApple II開発は、従業員1号のビル・フェルナンデス氏も感銘を受けた思い出として記憶しているようですが、その後は問題もあったようです(当時、彼はまだ社員として採用に至っていません)。
ウォズニアックは天才だ、でも配線図が1人で書けなかった
その問題とは、Apple IIのすべてがウォズニアック氏の頭の中のみで組み立てられていたこと。その当時の状況について、ビル・フェルナンデス氏は、”ウォズニアックは本当に天才だったよ。でも、Apple IIはすべて彼の頭の中のみで仕上げられた代物で、問題も生まれた。”と語っています。
問題とは、発表前年である1976年の時点では動きもしなかったことです。ビル・フェルナンデス氏と同期でAppleに入社したエンジニア、ダニエル・コトキー氏はこの問題について、以下のように語っています。
1976年当時、Apple IIは動かなかった。ウォズニアックのプロトタイプ機はちゃんと動いたんだけどね・・・回路基板にするとどうにもうまくいかないんだ。
この問題はウォズニアックにもどうすることもできなかったし、配線図もないんだからみんなお手上げだったんだ。
ビル・フェルナンデスが配線図を仕上げた
資金調達にも成功し、初めて技術チーフであるロッド・ホルト氏を迎え入れた当時のAppleですが、配線図がないことにはどうにもこうにもいかない状況が続いていました。まだまだ従業員数の少ないAppleにとって、Apple IIを商品として市場に出すには、どうしても配線図を早期に描き上げる必要がありました。

Apple Iを抱え、Apple IIの前で記念撮影をするビル・フェルナンデス氏
そこでホルト氏はビル・フェルナンデス氏に配線図の作成を依頼します。ホルト氏から正式に配線図の作成を依頼された当時の状況について、ビル・フェルナンデス氏は以下のように語っています。
本当にApple IIのデザインはウォズニアックの頭の中にあった。彼にメモを渡すと、細部まで書き起こすことができたんだ。でもAppleが必要としたのはメモの情報だけでなく、必要なすべての部品と、それをどのように配線していけばよいのか、という完璧な配線図だった。
私はウォズニアックが書いた数枚のメモをコピーし、作業した。色々と苦労もあったが、最終的に私はApple IIの配線図を書き上げた。配線図は非常に明瞭で、部品相互の関係などが完璧に網羅されたものに仕上がったんだ。
Apple II 完成 − そして・・・
無事Apple IIは市場に投入され、ウォズニアック氏とジョブズ氏はガレージから世界に革命を起こしたクレージーキッズ(原文まま)として注目を集めました。
しかし、ビル・フェルナンデス氏の名前は、2人のスティーブのようにきらびやかな存在として、メディアの注目を浴びることはありませんでした。Apple IIを作った影の功労者、ビル・フェルナンデス氏の名はレジェンドの1人として世に残ることはなかったのです。
彼がいなければ、Apple IIはなかったかもしれない、そして現在のAppleもなかったかもしれない、そんな人物こそがビル・フェルナンデスなのです。
● ビル・フェルナンデス氏のその後について
その後、彼はAppleでのキャリアに不満を覚え、Appleを辞めてしまいます。その後日本にも数年間滞在し、なんとシンガー・ソングライターとしても活躍しました。

日本のテレビで曲を披露するビル・フェルナンデス氏
米帰国後はAppleに復帰、Macintoshチームに加入していたようですが、その後の活躍はあまり大きく取り上げられておらず詳細は不明となっています。
参照元:TechRepublic
執 筆:クロス